なんとなく長岡では
「ボロは着てても心の錦」という人が多いんではないでしょうか?
なにせ長岡は「常在戦場」、「質実剛健」の土地ですから、
「デザインで差別化などは以ての外」、という雰囲気があります。
少なくとも紅屋重正とかしこの永遠の論争点ですね。
(いや、現実はお互いに理解し合っているんですが、ここでは話を分かりやすくするため、対立関係で書いています)
このデザインに対する感覚は、
理性(マーケティング)で解決する問題ではありません。
信条(好悪)の問題です。
長岡の方とお話しすると(つまり理性的な場面では)
「デザインは大事だ」と、皆さん仰有います。
でも、生理的というか、心の奥のまた奧では
「デザインに走ることに、私個人の生き方としては納得できない感じがある。」
ということはないでしょうか?
何故なら・・・
「デザインに走ることは、『消費者受けして販売には良い』かも知れない」
「だが、それはお客様に本当に奉仕していることだろうか。詐欺的ではないか?」
「だから、商売的にはOKだが(理性的な場面)、信条的には(感情として)NG」
という方がけっこう多いのではないでしょうか。
たぶん紅屋重正から見れば(これは邪推かも知れませんが)、
下のような「かしこ」のパッケージは、
理性的に言えば「過剰」で、ビジネス生理的に言えば「不快」であるかも知れません。
真面目な職人ほど、
「中身がシッカリしていれば、外装にお金をかけるのは不道徳。」
「何故なら、その分で少しでもお客様に安く売るべきだ。」
と考えるのではないでしょうか?
紅屋重正は昔、「お菓子代」と「箱代」を別に分けて支払って頂いてました。
その思想は「箱は和菓子屋にとって本質ではない」、ということです。
たぶん、今でも箱代は商品上代の1〜2割に抑えるべき、
と考えているのではないでしょうか?
一方、かしこのパッケージの原材料は、お菓子本体と変わらないほどです。
更にこの箱を組み立てるだけで非常に時間がかかります。
(1時間に10個+α程度しかつくれません)
そのうえ、お菓子の詰め込が1時間で5個程度が限界ですから、
その労働時間を換算したら、それ以上になるかも知れません。
私たちは、このかしこを始める頃、
「ステキなパッケージにしよう」とは思っていました。
私もパートナーも、広告に関わっていましたから、
・中身が良いかどうかを知っているのは製造者だけ。
・顧客は中身についての情報を知り得ない。
・だからパッケージは顧客が中身を推理するための重要な情報
と考えていました。
ただし、顧客が中身を知り得ないという事実は変わらないので
外だけ良くして中身に手を抜くという詐欺手法も成り立ちます。
実際に商売をしてみると分かりますが、
よいデザインは固定費(デザイン費用)変動費(パッケージ費用)とも予想以上に高い。
(広告活動は、更に高い)
だから、それに金をかければ中身に金をかけるわけにはいかないわけです。
実務者は、それを知っているわけです。
更には予想以上に高いことを知っているのは実務者だけで
顧客は「そこまで高い」なんて思わないわけです。
だから、中身にこそ金をかけたい職人が
見た目の良いデザインを詐欺的に感じ、不道徳に感じるのは致し方ありません。
ここまでは
職人かたぎな紅屋重正と、マーケティング出身のかしこの
考え方の差なのです。
どちらが良いとか、悪いとかではありません。
しかし、かしこで一流の先生方と仕事をさせていただいたことで、
そこで私たちはある重要なことを学びました。
それによって、「ステキなパッケージにしよう」という私たちの願望ではなく、
「パッケージは絶対にステキでなくてはならない」という信念に変わりました。
それは、私たちの考えが、広告的(マーケティング的)から
デザインの本質を知ることで、大きく変わったからです。
それは、こういうことです。
「ボロを着てても心の錦」と考えるとき、そのボロを着ているのは誰でしょう?
紅屋重正的な考え方に沿えば、
それは一義的には製品であり、つまりは作り手(職人)です。
しかし、かしこは決してそうは考えません。
デザインという服を着るのはそれを購入したお客様です!
つまりボロを着ているのは、あなた(作り手・職人)ではなくお客様。
逆に言えば、あなたはお客様にボロを着せても平気ですか?
それよりもお客様にステキな服を着て欲しくはありませんか?
なぜ、そんな違いが生じるのか?
厳しい言い方になるかも知れませんが、それは結局、
商売の中で「売り手と買い手(お客様)との関係」しか見えていないからです。
おいおい、「自分達(作り手)側しか見えていない」なら問題だろうが、
「お客様との関係が見えている」のなら充分じゃないか!
そう考えるかも知れません。
しかし、お客様は自家用のコモディティでない限り、
そのモノを媒介にして、自分と自分の周囲の人との関係を持つのです。
和菓子であれば、先様(お菓子を贈る相手)です。
洋服などの身につけるもの(それは文房具だって入ります)や
耐久消費財(車、家電、情報家電なんでもそうです)だって、
それが自分と周囲の人との関係に強い影響を与えるのです。
そして、他人との関係に於いて私自身の服装は極めて重要です。
デザインはモノにとっては本質的なものではありませんが、
人(お客様)の生活にとっては(モノとは別次元で、モノ以上に)本質的なのです。
デザインに払われるお金は「モノに対して払われる対価」ではなく、
「お客様本人の成長に対して支払われる対価」なのです。
ボクが長岡人の質実剛健になんとなく違和感を感じるのは、
デザインを軽んじることは、結局「作り手である自分の事しか考えていない」ことに
簡単につながってしまうからです。
もう一つの例を・・・・・
紅屋重正は私の強いリクエストで
毎年長岡まつりの8月2日、3日に本店の駐車場スペースで無料で冷水を配っています。
始めた頃は
「商品を買っていない(実際、ほとんどの人は水を飲むだけ)人にサービスしてどうする?」
と非難されました。
けれど皆さん考えてみてください、ウオロクもなかった2000年当時のあの頃を。
○長岡以外の土地(東京、県内)から花火を見に来る。
→長岡まつりの花火を土手で見て大感動!
→帰りの道は「今までなかったほど蒸し暑い」、しかも「お店もない」、「自販機も売り切れ」。
→メインストリートも皆、お店を閉めている。
→花火は良かったけど、長岡は最悪・・・・
ボクは、
「モノを買って貰うより、まず長岡を好きになって貰いたい」
なにより「長岡に来てくださったことを感謝したい」
と思いました。
思いました・・じゃないですね。信念です。
花火を見て、長岡を不快に思った人。
その人は(その人が良い人であればあるほど)、長岡の話をしなくなるでしょう。
話さなければ、不快な思いを呼び覚まさなくても済むからです。
花火を見て、しかも「長岡って良い場所だ」と思った人。
その人は、長岡の話をどんどんするに違いない。
話せば話すほど、楽しさが増していくからです。
私は「顧客ニーズ」と言う言葉、「顧客第一」という言葉が大嫌いです。
多くの場合、それは「手段」であり、その手段(マーケティング)を駆使することが
自分達のビジネスを大きくしたいという「目的」を達することになるからです。
しかし、上記の「デザイン」の話、そして「水を配る話」のポイントは
「お客様の人生を豊かにする」ことが「ビジネスの目的」であり、
その目的を果たすために「売上や儲け」は実現手段として求められる
ということです。
かしこの値段が高いのは、「高く売りたいから」ではありません。
「お客様にステキにあって欲しいから、良い服(デザイン)を提供したい」があり、
それを提供するために「お客様に価格で負担を頂く」のです。
質実剛健という「自分を美しする」信念から、
「お客様を美しくする」という信念への転換。
長岡が新しい付加価値を生み出すには、こういう転換が必要になると思います。
前に「長岡造形大学を長岡は生かしていない」と書きましたが、
その理由は「お客様の人生を手段ではなく、目的として考える」ことの欠如であり、
それが「モノとヒトと出会いの3つの相の化学変化を考える」コンセプト発想の欠如に
つながっているのかも知れません。
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